参考文献 講座資料
市の史跡・文化財へ
田伏地区の幕末史跡を歩く
 幕末史跡ではないのですが、もと旅籠「松屋」があったという場所の道路反対側に「坂本九
さん」の祖父 坂本金吉(霞ヶ浦の「帆引き船」を秋田県八郎潟に伝承した人)が眠る坂本家
の墓が東福寺にありました。
 太宰清右衛門は、文政11年(1827)5月現在の福島県伊達市(旧保原町)の豪商の長 
男として生まれました。太宰家は真綿絹糸の仲買卸商を営む地方きっての豪商で、江戸に 
大きな出店を持っていて、清右衛門はその江戸出店の責任者をしていました。
 この江戸で、安食村(かすみがうら市安食)郷士の竹内百太郎と出会い、二人は千葉周作の 
門に通い剣の修行を受けたりして意気投合していました。そのような中、清右衛門は竹内家の 
分家として金五百両を水戸藩へ献金して、水戸藩25万石取の郷士の資格を取得しました。
 郷士となった清右衛門は様々な交友を通して尊王攘夷思想を実践運動へと発展させていき 
ました。
 桜田門外事変に関わりがあったようで、それを裏付ける資料として、清右衛門の妻「せい」 
が語った口述記録があるようです。
 その後も清右衛門は尊王攘夷思想を高める拠点ともなった小川郷校の経営に参加したり、
天狗党の筑波山挙兵時にも外部より応援していました。
 その後、幕府軍からの厳しい追求を逃れるため宍倉村(かすみがうら市宍倉)に帰郷し、潜 
行していたが、ある時に付近の火事を知らせる早鐘を召捕方の早鐘と勘違いをして、曽洞宗 
杲泰寺で自決してしまいました。
 清右衛門の業績は、明治22年水戸藩尊王志士として靖国神社に合祀され、茨城県の護国 
神社へも祀られました。また、郷里の保原にも顕彰碑や招塊碑が建てられ永くその業績が後 
世に伝えられています。
 
 宮本中務(主馬之介)は、文政12年(1829)に吉田村(水戸市吉田町)の戸村惣太夫
の次男として生まれ弘化2年(1845)に16歳で宮本家へ養子として来て、養父中務の教
えや交流する人物などから尊王攘夷思想を学んでいったようです。宮本家は代々田伏鹿島神
社の神官を務める家柄で、中務は神官を務めると共に国学に造詣が深かったことから近隣の
子弟を集めて指導にあたっていました。
 天狗党の筑波山挙兵にあたっては、清右衛門と共に小川郷校に残り郷校から声援と協力
を行ったりしていましたが、竹内百太郎達とは尊王攘夷の思想は同じでも、そこに生じる意
見の相違から、それぞれの道を歩んだようです。
 次に「太宰清右衛門の墓碑と宮本中務の墓碑」の場所に行きました。
  
  服部本英は雪堂と号し、代々郷医の旧家に生まれ、医を生業としながら、家塾を開いて 
 近隣の子弟に指導にあたっていたようです。また、水戸藩郷校の小川稽医館に出入りし、
 館の運営に参画することで、水戸藩より苗字帯刀を許されていました。
  明治元年(1864)の天狗党による筑波山挙兵には書記頭取として参加し、日光より 
 太平山まで行動を共にしたが、その後は見解の相違があったようで、郷里に戻りました 
 が筑波軍関係者は反幕分子として探索され、探索を免れることは困難と考え、自ら名乗り 
 出て縛につき、身柄を水戸へ護送される途中、玉里村高崎台(小美玉市高崎)の場所で、
 天狗党の襲撃を恐れた捕吏たちに処刑されてしまいました。
  現在この高崎には「服部本英 朝日太郎 遭難之地」と記された石柱が建てられている 
 ようです。

  天狗党とは水戸藩内外の尊王攘夷派のことで、天皇を尊び外国の勢力を打ち払おうと 
 いう思想で、9代藩主となった徳川斉昭が行った学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し、
 質素倹約、海防と軍備の充実、藩校弘道館の設置等藩政の改革に共感した改革派で農民 
 や他藩の武士などが加わって数百人の勢力だったようです。
  その後、天狗党は当時京都にいた一橋慶喜(のちの15代将軍)の力を借り、1000名 
 余りの大部隊で京都をめざして美濃(岐阜県)に入り中山道を通り京都をめざそうとしたが、
 その方面には1万数千人の追討軍が集結しているので、越前(福井県)を回って敦賀市内 
 にたどり着いた頃、追討軍に取り囲まれ降伏した。
  幕府の若年寄 田沼意尊(老中 田沼意次の子孫)による取調べの末、明治維新目前の 
 1865年に武士や農民を併せ350人余りの大量処刑が行われた。

  天狗党の人々が敦賀で処刑されてから100年後の1965年に水戸市と敦賀市は姉妹都 
 市の提携を結び、それ以降、毎年両市の小学生の交流会が行われているとのことです。
服部本英墓碑・・・没後100年に建立
 農村集落センターから近い所に「服部本英の墓碑」がありました。
農村集落センタ・・・元出島村立田伏小学校のあった場所です。
平成26年7月27日(日)   
  田伏の農村集落センターに集合し、郷土資料館の学芸員千葉さんの案内で田伏地  
 区の幕末史跡を歩いて来ました。
宮本中務の墓碑
太宰清右衛門の墓碑
服部本英生家
宮本中務生家
トップへ
 かすみがうら市郷土資料館に於いて11月3日(月)まで特別展「水戸藩天狗党と新選組高
台寺・・・誠の道を貫いた志士たち・・・」が開かれています。
 平成26年(2014)から150年前の元治元年(1864)は、かすみがうら市出身の郷士 
内百太郎が水戸藩士藤田小四郎らと共に、水戸藩天狗党として尊王攘夷の決行を促すため
に筑波山に挙兵した年でした。一方で、かすみがうら市志筑出身の 伊東甲子太郎が新選組
へ入隊した年でもありました。志士たちは国難に陥る日本を憂い、日本の本来の姿、あるべき
姿を考えて新たな国づくりのために立ち上がったのです。清冽なる志を貫き、我が身の犠牲を
払って新生日本へ導いた功績は、現代人の我々が日本の将来を考える上での教訓となるので
はないでしょうか。・・・・(市の広報の文章を抜粋しました。)
江戸に向かう中継地としてこの道を通り、この
通りにあった旅籠「松屋」を天狗党が利用して
いたようです。
ここの場所に旅籠「松屋」があったとの
ことです。