表千家不白流の歴史
流祖川上不白は享保3年(1719)に紀州藩水野家の家臣、川上五郎作の二男
として和歌山の新宮にて生まれました。縁あって16歳の時、表千家七代如心斎の
もとに入門しました。
元文5年(1740)22歳の時、如心、不白参禅の師大徳寺大龍和尚の命名に
よる宗雪の号を如心斎より授かりました。如心斎の流祖に対する信任は厚く、如心
斎がある時真台子の点前の心と技とに対して疑問を持った時、不白を連れて大徳寺
へ籠り自己究明すること3〜4年、その刻苦のかいあって如心、不白とも見事、見
性、一所透れば千所万所一時に透る大自在を得て、如心斎と共に七事式の完成に進
みます。
その間、大龍和尚より孤峯不白の号を受け、やがて流祖はこの号を名乗ります。
この号の出典は禅の公案を集めた葛藤集にある
僧、曹山に問うて云く 雪千山を覆うなんとしてか孤峯不白なる
山云く 須く異中の異を知るべし
僧云く 如何なるか是れ異中の異
山云く 諸山の色に堕せず
の公案によるものです。
寛延3年(1750)の4月、真台子の式法を伝授され、その秋表千家の茶を広
めるため江戸へ赴きますが、在府1年あまりで如心斎が逝去、直に京へ上り師の喪
に伏して3年ほど在京することとなりました。
宝暦5年(1755)再び江戸へ帰った不白は武家階級、町人階級に身をもって
茶道の普及にとりかかりました。
如心と不白の茶道史に於ける役割は近代茶道の創立者として評されていますが、
それは、茶道を点前中心の修道の場として点前そのものに深い宗教的精神を求め、
点前の修行によって体得せられる境地にこそ茶の本来の精神があると身を以って示
されたところにあるでしょう。
近代茶の工夫と確立に努め現在の茶道体系の基礎を築かれた如心、不白の功績は
極めて高く評価されるでしょう。
茶と禅に徹して70余年、文化4年(1807)10月4日に89歳の生涯を閉
じました。
流祖のあとは池之端に居を構えた川上家と浜町に於ける川上家に大きく二分され
ました。私共は浜町派で
二代 不識軒 宗什、不白流の家祖にあたり、九州の久留米藩有馬家の茶
道役を務めました。
三代 眉 山 宗寿、有馬家に茶頭として仕え、藩主九代頼徳公の信任厚
く久留米藩士となる。藩窯の御庭焼の柳原焼の茶陶の指導
に当たる。
大徳寺鉄舟和尚より一指亭の号を授かり、以後代々の庵号
となっています。
四代 仙 渓 宗寿、時は丁度幕末にあたり茶道界の大きな変換期の中に
あっても当時の数寄者等と順会を主宰し連会茶事を催して
おりました。
五代 蓮 心 宗順、明治維新は茶道界にとっても極めて困難な時代であ
りましたが数寄者等と懸命に伝統をまもり、財界人を中心
とする明治茶道最盛期前半をささえた中心的存在でした。
門人に馬越恭平、益田克徳、益田鈍翁等を輩出しました。
六代 素 蓮 関東大震災にて浜町の家が灰に帰し、しばらく家元の活動
が中断していました。
七代 蓮 舟 各地の門下より流再興を乞われ、昭和27年秋七世宗順を
襲名し、川上家浜町派を表千家不白流と改め、高円寺に居
を構えました。
九州支部、四国支部、両毛支部を結成。
八代 7代没後、昭和41年秋、八世宗順を襲名し、現在に至る。
現在、流は九州、四国、栃木、福岡、山梨、茨城、沖縄、
埼玉の8支部と室蘭、福島、桐生、豊橋、名古屋、大阪、
鹿児島の7同友会を有し、各地で茶道の普及につとめてい
ます。
参考文献 不白流点前教則 基礎編