参考文献 講座資料
境内には松尾芭蕉45歳の時の作句の歌碑があります。表面に「古の阿多利 眼爾見由
類毛の皆涼し 者せ越翁」と芭蕉の句が刻まれ、裏には関 良可の「お那じ野耳 浅し婦可
しや 風の雪」と刻まれています。
関 良可は文化14年(1817)に角来村に生まれ、その後、下稲吉村に婿養子に来ま
したが実家に戻り俳人として身をたて晩年には多くの弟子がいたとのことです。
歩きませんか!水戸街道(稲吉宿)
下稲吉の一里塚
半田村(石岡市半田)を治める旗本の小出禄之助の用役に 林竹次郎 なる者がいて、
その竹次郎は半田村での仕事の途中、稲吉宿の旅籠「皆川屋」へ年に何度か宿泊で利用
っしていました。そこで、皆川屋で働く「いと」なる女性(相模国小田原出身・2つ年上)
に出会い、恋におちましたが、武士と下女という身分の差のため、嘉永6年(1853)に
相対死(心中)してしまいました。
その二人の墓が稲吉宿外れの「千体仏の墓地」にあります。竹次郎の遺言の「いと と
一つ箱へ」を考慮し、相互の髪の毛をいとの棺に入れて葬りました。墓碑には二人の戒名
と辞世の句が刻まれました。
千体仏墓地
貞照の碑
角来の生家前に建つ良可の歌碑
江戸時代の水戸道中は、水戸街道と呼ばれ当時は脇往還の一つで千住を起点として水戸
まで約30里と短い距離ではあったが、幕府と水戸徳川家、常陸および奥州諸大名を結ぶう
えで極めて重要な街道でした。
平成26年6月12日(木)風雨の中、市民学芸員の先輩の案内で水戸街道を歩いてきま
した。
ここから、南方面の中貫まで、北方面の西野寺までが約4kmとされています。
街道に一里塚が整備されていったのは、慶長9年(1604)徳川秀忠が東海道・東
山道・北陸道の諸街道を修理した際と考えられ、以降、水戸街道にも一里塚が整備され
ていきました。一里とは約4kmで、そこに塚が築かれ、現在では石岡・かすみがうら市
西野寺・土浦市中貫・牛久などにもみられます。
水戸街道の一里塚
交代寄合本堂家は、慶長6年(1601)に出羽国山本郡(秋田県美郷町)から常陸国新治
郡志筑(茨城県かすみがうら市)へ配されて、明治維新をむかえるまで十代にわたり志筑領
主を務めた家柄です。遡ると源氏の流れを引く家柄だそうです。
本堂家についての詳細はかすみがうら市郷土資料館に「交代寄合 本堂家の江戸屋敷発
掘」としての資料がありますので、是非ご覧になってください。
稲吉宿本陣(坂本家住宅)
旅籠皆川屋(木村家住宅)・・・・県指定文化財
成就院
下稲吉香取神社にある松尾芭蕉の歌碑
香取神社
祭神は経津主命(フツヌシノミコト)・・ヤマトタケルノミコトが東国征伐に向かわれる
途中霞ヶ浦から天の川(荒張川)を上られ現在の下稲吉香取神社のあたりに到着。長旅でお
疲れになったミコトの寝床を作る為に周辺から稲藁を集めて作った寝床が気に入り、この地
が「稲がよい」、「稲よし」となったということです。
香取神社は千葉県佐原市に鎮座する香取神宮を勧請したもので、香取神宮は日本建国の
大功神、国土開発の祖神と崇められる経津主大神(フツヌシノオオカミ)を奉祀する名だた
る大社で国家皇室から極めて厚い取扱いがなされている神社だそうです。
竹次郎といとの墓
現在の国道6号線の下稲吉付近の道路脇にこのような指標がありますので、是非歩い
て観ませんか
街道は歴史の玉手箱だと思います。
馬つくろい場
文政2年(1819)に下稲吉村に生まれた渡辺貞照は、水戸の平井貞俊について鍛刀術
を学び、その努力が実り熟練の域に達し、嘉永5年(1852)貞照33歳の時、本堂家の士
分にとりたてられて本堂家の刀工として活躍していた。
刀工 渡辺家
室町時代の供養塔
成就院は、福聚山成就院正明寺と称した三村普門寺の末寺で、真言宗で千手観音を本尊
としています。境内には金剛寺不動尊も所在しています。また、室町時代の供養塔が存在
しています。
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