小野川流域の歴史と文化
広畑貝塚(稲敷市飯出)
霞ヶ浦の南西岸の丘陵の裾に位置する縄文時代後期から晩期前半にかけて営まれた貝塚
です。土器や土偶・土版・耳飾などの土製品及び貝輪・尖頭忌・装身具などの骨角製品な
どが多量に出土し、豊富な遺物の発見地として著名です。
天文8年(1539)に焼失すると、当時の江戸崎城主の土岐治英が再建。
小坂城跡には、4つの曲輪(防御のための平場)があり、各曲輪を守る土塁と空堀が複雑な折れ
をもつことがあげられる。
平成29年9月23日(土)
小野川は、つくば市小野崎と洞峰沼が水源となり、新利根・牛久・龍ヶ崎・旧江戸崎・旧桜川と
流れ、霞ヶ浦に注いでいる。
小野川流域の「小坂城跡」➡「古代東海道跡」➡「逢善寺」➡「江戸崎城跡・瑞祥院」➡「高田神
社」➡「広畑貝塚」と順に見学して来ました。
高田神社(稲敷市高田岡)
高田神社は、承平年間(931~937)に、紀伊国の熊野大社の分霊を勧請し、平将門の乱
の平定を祈願するために創建された。
その後、没収されたり、再建されたり、焼失したりしたが、平成9年に再建され現在に至って
いる。約140mの参道の両側に立ち並ぶ杉の巨木は壮観である。
江戸崎城跡・瑞祥院(稲敷市江戸崎)
南北朝時代に美濃の土岐秀成が江戸崎に築城したのが始まり。戦国期に小田氏との紛争で
一時江戸崎城を失うが、土岐治頼の代に奪還して勢力を回復。戦国時代末期、小田原城攻め
の際に豊臣方の佐竹軍に攻められ落城し、その後、佐竹氏の移封に伴い廃城となった。
逢善寺(稲敷市小野)
天長3年(826)逢善道人(天台宗開祖最澄の法弟)が本尊の「千手観音」を安置し開
いたのが始まりと伝えられている。
淳和天皇第3皇女貞子内親王が幼少時に眼病を患い病気快癒の祈願をすると見事念願成就
し眼病が平癒したことから篤く帰依し、常陸国司の小野篁(平安時代前期の公卿、小野小町
の祖父又は父親?)が境内に宮庵を設けて女人救済寺にもなっている。
別称として「小野の観音様」とよばれている。
小坂城跡
牛久市小坂町字愛宕山に所在。
岡見城の岡見弾正忠が江戸崎城の土岐氏に対抗するための支城として築いたと考えられる城
です。岡見氏は小田氏に従っていたが、小田氏滅亡後は土岐原氏と同盟して北条氏の配下に加
わり佐竹氏に対抗。豊臣秀吉による「小田原征伐」での北条氏滅亡にともない岡見氏も滅んだた
め小坂城も廃城となった。
雑草がはびこっていて、国指定の貝塚なのに・・・・ 大変残念です。
道路を挟んで神社の反対側の
ルート上の道
この上君山の稲荷神社周辺は
そのルート上にある。
古代東海道跡 (稲敷市上君山)
現在の利根川を挟み対岸となる稲敷市柴崎、小野川を挟み稲敷市下君山へと抜けるルート
が古代東海道の道筋とされている。