参考文献 茶席の禅語編
淡交社発行
茶席には茶掛と言って禅語の一部を引用した句の軸を使用するのが慣わしで
す。月毎に主に使われている句を掲げてみました。
1月 松樹千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)
「松樹千年の翠、時の人の心に入らず」すなわち、松が幾多の風
雪にも屈することなく緑を保ち続けている堅固さに世の人々は
気が付かない、という句から採られた言葉で、いつまでも変わ
らない松の緑に託して、長寿や多幸を祈り、特に正月の席に用
いられる。
春入処々花(春は入る処々の花)
「春は千林に入る処々の花、秋は万水に沈む家々の月」という、
春秋の風景を詠んだ対句の前半の句で、春があらゆる林に余す
ところなく入り込、様々な花が咲き乱れている情景を嘆じる句
で、目の前の森羅万象すべてに平等に仏の世界(法性)が行き
渡っていることに対する感動を表している。
無事是貴人(無事これきにん)(無季)
平穏無事であることは貴いことである、という意味で、外に向
かって求める心が消え、無用なはからいをしなくなった境地の
こと。
2月 梅香和雪香(梅香雪に和してかぐわし)
白雪がまだ残る中に梅の白い花が調和して織りなす光景に冷た
く長い冬を越えて初めて淡く漂い出すその香りが加わって、暖
かい春が喜びの中に迎えられる。去り行く冬と訪れる春との微
妙な調和を表現しているこの句は早春の茶席にふさわしいもの
でしょう。
春在一枝中(春は一枝のうちにあり)
すべての生命が眠りを保ち続けた冬も終わりに近ずく頃、庭先
の梅の一枝に咲き初めた花、もうその中に春が満ち満ちている
ことの感動を表現している。
春来草自生(春来たらば草自ずからしょうず)
春が来れば自然に草が生え、秋になれば葉が落ちるというよう
な私たちの身の回りの営みの中に、生き生きと仏法が現れてい
るので、特に遠くに求めたり隠れたものを探したりする必要は
ないという、仏教の真髄を尋ねる問いに対する答えとして使わ
れた言葉。
3月 花開萬劫春(花開きて萬劫の春)
日増しに暖かさが増していくとともに至るところで様々な花が
咲き始め、その長閑な日々が未来永劫続くことを祈る気持ちを
込めた句。
春水満四沢(春水四沢に満つ)
寒さが徐々に緩むとともに雪や氷が解け出し、川や湖や沼はそ
れを受けて漫々と水をたたえるようになる。冬の間の身を切る
ような冷たさもなくなって、春の水は私たちの心身に喜びと潤
いを与えてくれる。自然界に春の装いが整い始める頃にこの軸
を掛けましょう。
4月 柳緑花紅(柳は緑 花はくれない)
春の野のあるがままの光景で、全く平凡な内容の句にしか見え
ないかも知れないが、そこには、私たちが当たり前のように接
している森羅万象の営みの中に、仏の偉大な生命が常に生き生
きと働き続けていることに気付いた時の感動が詠まれている。
山花開似錦(山花開いて錦に似たり)
山々に咲く花は錦のように咲き乱れ、谷は藍のような水を豊か
に湛えている。これは、花は散るままに、水は流れるままに永
遠不滅なる堅固法身、すなわち仏法は堅固であると言う意味
5月 白雲自去来(白雲自ずから去来)
「青山元不動、白雲自ずから去来」からの句で「白雲」は怒り
や愚かさ等、真実の自己を覆い隠してしまおうとする様々な心
の障害物を指し、多くの修行を積み重ねても、それを妨害しよ
とする煩悩は雲のように次から次へと湧き起こり、去来する。
しかし真実の自己は全くそれに汚されることはない。
薫風自南来(薫風南より来る)
文人の柳公権が「薫風南より来り、殿閣微涼を生ず」と詠んだ
句で、初夏に吹く爽やかな南風が宮殿いっぱいに快適な涼しさ
を運んでくれる、と。緑滴るこの季節に吹く風は、生き生きと
した香りを運んで来るように感じられ、初夏を迎えた茶席にふ
さわしいでしょう。
6月 山是山水是水(山は是れ山、水は是れ水)
悟りに至らない段階では当然のことながら山は山、水は水にし
か見えない。しかし、無我の三昧を体得して本来無一物の境地
に至ると、一切が無差別平等となり、山は山でなく、水も水で
なくなってしまう。ところが、さらに修行が深まって悟りの心
さえも消え去ってしまうと、山が山として水が水として新鮮に
蘇ってくる。
渓水山風共清(渓水山風ともに清し)
澄み切った谷川の水の涼しげなせせらぎと爽やかな風が山歩き
で火照った体に心地よい、仲夏の情景が描かれている。
大自然の営みの中に生き生きと働き続けている大いなる生命の
存在を感得した禅修行者は、玄沙和尚に「耳をすましてみなさ
い。谷川のせせらぎが聞こえてくるだろう。それが悟りへの入
口だ。そこから始めてみるがよい」と悟りに近付く方法を教え
られた。
7月 青山元不動(青山もと不動)
堂々と揺るぎなく聳え立ち微動だにしない青山の近くを、白雲
が次から次へと去来している様子を描いた「青山元不動、白雲
自ずから去来」から採られた句で、青山は私たちの堅固なる仏
性、白雲はそれを覆い隠そうとして絶え間なく湧き起こる煩悩
を表している。
清流無間断(清流間断無し)
求める心を堅固に持ち続けることと不断に努力する事の大切さ
を強調するために用いられる言葉。
「清流間断無く、碧樹曽て凋まず」の上の句で、「清流」と「
碧樹」に象徴されているものは、私たちが等しく持つべき「悟
りに向かう心」であり「完成を求める心」である。
8月 瀧 直下三千丈
滝を題材に用いて涼しさを強調する言葉。
流れてきた水が絶壁に差し掛かると、そこから豪快に落下して
滝となる。その落下地点である滝壺は、滝の神、水神の棲家と
考えられて古来神聖視されてきて、近くには不動明王や弁才天
が祀られた。滝には様々な宗教性があるが、禅語的な意味はあ
まりない。
行雲流水(こううん流水)
雲や水が何にも妨げられることなく気ままにどこへでも流れ行
くさまから、微塵の執着もなく自由自在融通無げに振舞う禅者
の姿を表現するのに用いられる。これを略した形の「雲水」が
禅の修行僧の呼称となっている。
時には雲のように万物に柔らかい日陰を与え、時には水のよう
に万物に潤いを与えるという姿勢を保ってこそ真の「行雲流水」
と言えるのである。
9月 清風払明月(清風明月をはらう)
「明月清風を払い、清風明月を払う」は最もよくしられている
語で、清々しい風が吹き過ぎる大地を明るい月が照らし出すさ
まと、明るい月に照り映える広野に涼風が吹き来るさまとを並
べて、秋の夜の爽やかさを強調した名句である。
明るい満月に照らされた涼しい風の吹く夕は、観月の茶会を催
して自然と交わりながら秋の風情を楽しんでみたい。
掬水月在手(水をきくすれば月手にあり)
「水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ」の一節
で、両手で水をすくえばそこに月の姿が映り、花を手に採れば
その香りが衣服に染み込む。
自他の対立を離れて月や花と融合し、渾然一体となった境地の
この上ない喜びが伝わってくる句である。
自らを無にして万物に融け込み、月となって輝き、花となって
香って初めてそこに働く偉大なる力を感じ取ることができる。
10月 清風萬里秋(清風万里の秋)
「昨夜一声の雁、清風万里の秋」の出典で、雁が一声鳴いて飛
び去って行き、清らかな風が吹き抜ける秋を迎えた、という情
景で、「清風」という言葉に表される爽やかなイメージもある
けれども、一般には万物の凋落を誘う、何となくもの悲しい風
という捉え方が多い。
秋露白如玉(しゅうろ白きこと玉の如し)
秋のある朝、庭先の木の葉の上で宝石のような露が丸くなって
いた、という光景で、紅葉の上ではルビーとなり、青葉の上で
はサファイアのように姿を変える露の性質は、無我に徹し切っ
て自由自在にあらゆる立場に身を置くことのできる理想的な禅
修行者の象徴とされることが多い。
11月 楓葉経霜紅(ふうよう霜をへてくれないなり)
日中よく晴れ上がり、夜間に厳しく冷え込んで霜が降りるよう
な気候が続くと、葉の中に含まれる赤い色素が一段と鮮やかに
なる。この季節になると人々は誘い合って紅葉狩に出掛け、「
春の花よりも紅なり」と讃えられた野山の錦を心ゆくまで観賞
するのである。
室閑茶味清(室しずかなれば茶あじ清し)
貴重な秋の夜長、静かに茶をいただきながら物思いに耽るのも
また格別の趣がある。
時には心を鎮めて、禅で言うところの「本来の自己」を求めて
みるのもよいのではないでしょうか。
12月 歳月不待人(歳月人を待たず)
陶淵明による「雑詩十二首」の
盛年重ねては来らず 一日再びあしたなり難し
時に及んで当に勉励すべし 歳月人を待たず
(意気盛んな年代が再び訪れることはない。また、一日に二度
朝が来ることもない。だから、適当な時期を逃すことなく努力
しなければならない。年月は人を待たずに忽ち過ぎ去ってしま
うものだから。)
現在、目の前にあることに全力を注ぐことが大切でしょう。
看看臘月尽く(みよみよろう月つく)
みるみるうちに十二月が終わってしまう、の意で、何かと気ぜ
わしい年末には一分一秒が貴重に思えるけれども、時間の貴重
さは一年中変わることがないのだから、常に年の暮れを迎えて
いるつもりで一刻一刻を大切にしなさい。というのがこの言葉
の真意。
茶席の禅語