参考文献 講座資料
平成29年9月9日(土)
霞ヶ浦への流入河川は、全部で56本(西浦29、北浦22、常陸利根川5)あり、北浦への
流入河川で最大は、巴川です。巴川は、古くは「鞆絵川」と書かれ、茨城・鹿島・行方の3郡を
三つ巴になって屈曲して流れていたため、この名称が付けられたといわれている。現在の川幅
は狭くなっているが、江戸時代には各所に河岸が設けられ、奥州から江戸への物資移送路の一
部として重要な役割を果たしていた。
巴川流域の「愛宕神社」➡「古代東海道と泥障塚古墳群」➡「水戸街道堅倉宿」➡「紅葉奉行
所跡」➡「無量寿寺」➡「不二内古墳」と順に見学して来ました。
無量寿寺 (鉾田市鳥栖)
開基はもと三論宗にはじまり、その道場として大同元年(806年)、平城天皇の勅願所とし
て建てられた。その後、元久元年(1204年)に頓阿という僧によって住持され、当地方の村
田刑部時国が復興して禅宗に改められた。20年ほどして時国の妻が難産で急死。境内墓地
に埋葬するが、成仏できず幽霊に。たまたま親鸞が鹿島参詣の際に立ち寄り、時国は供養を
嘆願する。
親鸞は、「浄土三部経」の一字一石供養を行う。その後、寺を「無量寿寺」と改め、弟子の順
信に寺を任せた。後に二十四輩第三番霊場となった。
紅葉奉行所跡 (鉾田市紅葉)
小宮山楓軒は、江戸時代後期の水戸藩士で、学者でもあり、民政家でもあり、立原翠軒に学び
天明3年(1783年)彰考館(水戸藩の大日本史編纂所)に入り、「大日本史」の編さんに16
年間 携わった。その後、南(紅葉組)郡奉行に抜擢され、21年間民政にあたりました。
古代東海道と泥障塚古墳群 (小美玉市納場)
巴川中流域の納場地区の台地北西部に分布し、古墳時代の中期(5世紀~6世紀)頃のもの
と推定されている。源義家が奥州征伐の折に馬の泥障を埋めた場所と言われ、別名あおり塚、
またはドンドン塚とも言われている。付近には、古代の東海道の跡や伝承、地名が残っている。
巴 川
愛宕神社 (笠間市泉)
愛宕神社は愛宕山の山頂にあり、日本三大火防神社のひとつと言われており、創建が大同元年
(806年)と伝えられている歴史ある神社です。愛宕山には昔、天狗たちが住んでいたという伝
説があり天狗にまつわる場所が多くある。愛宕神社の裏には「飯綱神社」があり、その裏に愛宕山
に住んでいた天狗を祀った「十三天狗のほこら」と呼ばれる石のほこらがありました。
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巴川流域の歴史と文化
水戸街道堅倉宿 (小美玉市堅倉)
水戸街道は慶長14年(1609年)に徳川家康が11男の頼房(徳川光圀の父)に水戸
藩25万石として与えたことで、水戸ー江戸間の交通として整備されていったと考えられてい
る。
水戸街道の起点は日本橋だが、水戸藩上屋敷があった小石川から水戸までの総距離は三
十里十四町(約120km)で、この間に19の宿場があり、賑わいをみせていた。